<阪神・淡路大震災(災害報道の限界)>
・阪神淡路大震災の頃は報道ディレクター。
・2日目に東京から御影へ。避難所に行けない人々の状況を取材
・入社3年目で2つの大きな体験→情報格差の実態実感&報道ヘリ騒音問題直面
・災害報道ではなく災害情報伝達にこだわるきっかけに
・被災地で何が起きているかではなく、被災者の命を守りつなぐ役割が重要
・“災害情報伝達”とメディアを考える上で注目したのは
阪神淡路大震災下で活躍した2つのラジオ局(ラジオ関西・FMわいわい)
・自身もラジオセンターに異動。災害時のコミュニティFMと連携進める
中越・中越沖地震でのコミュニティFMからの学び
<東日本大震災(ラジオの活躍>>
・東日本大震災の時は研究所に異動半年後のこと。
・報道空白地問題を実感。
・通信障害、停電が数か月→「臨時災害放送局」(災害FM)が活躍
・「災害が発生(おそれがある場合も含む)した場合に、その被害を軽減する
ために役立つことを目的に、被災地の地方公共団体等(災害対策放送を行う
のに適した団体)が開設する臨時のFM放送」→免許は電話・簡便な設備
・制度自体は阪神淡路大震災から。東日本ではCFMがない18市町村で新設
・臨時災害放送局との関わり
→女川町の開設&運営のボランティア。陸前高田や全町避難の富岡町も
→その後、全局訪問調査も。東日本以降の開設局への調査も
・津波被害が大きかった分、復旧復興が長期化することが分かっていたなかで
「臨時災害放送局」の存在は、非常に大きかった。
→2つの役割。命を守る(防災無線ない中での防災・二次災害避難呼びかけ)
→心をつなぐことの意味(富岡、陸前高田、亘理町など)
→女川5年間、富岡7年間で終了 災害FMがCFMになるハードルも。
→なにがなんでもラジオ、ではなく、地域で心をつなげる場、メディアでも
カフェでも居酒屋でもいい。全ての人に開かれ、受け入れる場作りが大事
<能登半島地震(取り残される地域)>
・見えにくい問題(情報から取り残される高齢者&孤立者・デジタル化の限界)
・能登半島にこれまで5回取材。
・東北で活躍した臨時災害放送局は、能登半島地震では開局しなかった
→自治体に制度知られていなかった&負担大きい
→衛星ネット整備でネット環境回復→自治体の伝達はLINEメインに
→避難所にテレビ(BS)、そもそもラジオメディアへの関心も低かった
・被災した人たちへ、情報は十分に届いていなかったのでは?
→NHK調査 全体ではスマホ1位。3日以上孤立(ネット不通)ラジオ1位
→自治体はLINE→スマホ使えない高齢者、ネット不通の孤立地域は??
・その状況のなかで、地元ラジオの役割もあったはずだが・・・
→能登半島のラジオななおは頑張っていた。しかし、担当は孤軍奮闘
→NHKも民放も生活情報伝達取り組む。初動数日は情報がなく通常放送メイン
→心に寄り添うのがラジオ。少数でも孤立で不安な状態でいる人に思いをはせ
情報がなくてもそうした人の心に届く生放送で呼びかけるべきだったのでは
<今後>
・能登半島のこれからとメディアの役割(今後に向けて)
→珠洲も輪島も3分の2が半壊以上。2重被害
→1年過ぎメディア・ボランティアの関心低調。高齢者の仮設生活厳しい
・そんな中、2月23日に輪島市町野町(M)で1日限りのラジオイベント実施
→「まちのラジオ」位置づけは臨時災害放送局運用実験放送 免許は総務省
→企画したのは町野町住民の「町野復興PJ実行委員会」
CFMの業界団体や有志の局、(一社)おながわえふえむが協力
→将来に向けラジオ局立ち上げたいとの思い→地元の感触や担い手探しのため
・LINEやスマホを使いこなすのが難しい高齢者が多い
・輪島市の情報はLINEであるが町野の情報がない、
・日常の暮らしを取り戻していくためにみなで語り合う場が欲しいなど
→マスメディア、コミュニティメディア、町野のはマイクロメディア
全ての人が当事者であり自分事、特にこれから町を作り直していかなければ
ならない被災地では、住民の自治のためにもこうしたメディアが必要
*災害は暴力的に強制的に地域を破壊し、人の命を奪い心を傷つける。
被災地で絶望のなか生きる苦しさ、再生する人の強さを学ばせてもらっている
*その学びを少しでも社会に還元するにはどうしたらいいか?
被災地のボランティアでもなく、問題を提起するジャーナリストでもなく、
フィールドワークに重きをおく研究者として、私は、災害の有無にかかわらず
取り残される人たち、取り残される地域をどう減らし、なくしていくか、
そのための汎用的な仕組み作りを考え、提案するのが自分の役割と考えている